伊深の今と歴史

伊深の今

●地勢

伊深小
 伊深は美濃加茂市の北西部に位置し、東部は市内三和町、南東部は市内山之上町・蜂屋町、南部・西部は富加町、北西部は関市にそれぞれ隣接しています。

 また水系は長良川水系に属し、北から南へは大洞川(一級河川)が流れ、南部を東から西へ流れる川浦川(同)に最西部で合流し、更に下流で津保川、長良川に合流しています。

 住居表示上の「美濃加茂市伊深町」は昭和29年4月1日の美濃加茂市発足以前に加茂郡伊深村であった区域ですが、行政区分上の伊深地区(伊深小学校校区)は、住居表示上の美濃加茂市伊深町の全部に、山之上町の一部、蜂屋町の一部を含んでおり、当協議会の活動区域もこの範囲を対象としています。

 ◆南北距離     約4.8km

 ◆東西距離     約3.6km

 ◆最も高いところ  標高約380m(大平山山頂)

 ◆最も低いところ  標高約80m(カトーメテック周辺)

 ◆伊深小学校校庭  標高102m

●人口・世帯

 人口 1,116人(男563、女553)   世帯 430戸

 高齢化率 35.8%    〔令和5年4月1日現在 いずれも外国人を含む〕

 (65歳以上比率)

 

●交通

 県道63号線(美濃加茂和良線)が南北に、県道97号線(富加七宗線)が東西に走り、南部で交差しています。これら2線はともに主要地方道となっています。

●自治会

 令和5年4月1日現在、以下の8つの自治会があります。

  上本郷、下本郷、関也、上切、大洞、糠洞、野地原、亀渕



伊深の歴史

●伊深の略年表

西暦 年号 伊深の歴史  主なできごと
702 大宝 2 御野國加毛郡半布里戸籍
750 天平
勝宝 2
美濃國司解
 武義郡揖可郷武義造営廬之賤・奴 豊麻呂
937 承平 7 和名類聚抄に武義郡揖可郷
1253 建長 5 近衛家領目録に揖深庄(荘園)
1263 弘長 3 吾妻鏡に春日部左衛門三郎泰実美濃國指(揖)深庄地頭職解任される
1336 建武 3 光厳上皇院宣、美濃國揖深庄
1330
1338
元徳 2
暦応元
無相大師関山慧玄
 美濃伊深の山里に隠棲
1375 応安 8 横蔵寺暦世高恩録(揖斐郡谷汲村)
 虫供養ここ武義郡揖深庄 如真寺
1376 永和 2 横蔵寺大般若写経奥書
 濃州武義郡揖深庄 勝妙寺
1384 至徳元 龍安寺梵鐘陰刻名 美濃國守護土岐康行寄進
 大日本國濃州武義郡揖深荘 碧雲山永安禅寺鴻鐘
1532
天文年間
初頭
土岐頼武地行宛行状に
 賀茂郡の内揖深とある
1557 弘治 3 廿屋白山神社棟札
 濃州賀茂郡揖深之内津々野村
1565 永禄 8 堂洞城の戦 城主岸勘解由討死
加治田城主佐藤紀伊守忠能
○関・加治田合戦 関城主長井隼人正道利
1567 永禄10 紀伊守伊深村に隠居 天正5年3月29日死去
1582 天正10
ハ月中旬
第二代加治田城主斎藤新五本能寺の変で討死
○兼山・加治田合戦 兼山城主武蔵守長可
1589 天正17 太閤検地 秀吉の美濃検地
一高千三百八拾壹石壹斗八升 伊深村
1600 慶長 5 関ヶ原の戦
旗本伊深佐藤氏知行地
1610 慶長15 徳川家康公より拝領 加茂郡井深村之内
 佐藤駿河守堅忠  一、〇〇〇石
1617 元和 3 徳川秀忠公より拝領 美濃、摂津、大和、近江之内
 佐藤勘右衛門維成  二、一九〇石
1619 元和 5 伊深の一部尾張藩領となる
1624 寛永元 関山が隠棲した遺跡を訪れた江戸隄岳寺の僧錐翁慧勤は伊深に草庵を結ぶ
1632 寛永 9 諏訪神社棟札 加茂郡揖深村上切郷
1660 万治 3 僧大極唯一初祖山円成寺建立
1668 寛文 8 天王宮移転(高倉神社)
1669 寛文 9 初祖山円成寺を改め妙法山正眼寺
○伊深村が川浦川に新設した井堰に対し羽生村より訴えられ取りこわしを命じられる
1673 寛文13 正眼寺洪鐘鋳造 濃州路加茂郡伊深郷
1677 延宝 5 星宮神社棟札
○正眼寺境内に第二代領主佐藤駿河守成次公の了心院霊屋落成
1681 延宝 9 神明神社棟札 濃州賀茂郡揖深村佐藤勘右衛門信次建立
1682 天和 2 伊深義民
百姓代表が年貢の減免を幕府へ訴え出、裁決により農民三十二名が入牢、打首又は獄死した事件
1690 元禄 3 牛頭天王社改造棟札(高倉神社)
1730 享保15 龍安寺の鴻鐘出土
1742 延享 4 上切の薬師及び観音堂建立
1771 明和 8 伊深村に大雹が降り麦は収穫皆無同様となる
1783 天明 3 天明大飢饉はじまる(7年まで)
1798 寛政10 正眼寺境内龍王社建立(八大竜王)
1811 文化 8 領主石地蔵を建てる(円照の石地蔵)
1824 文政 7 第九代領主佐藤美濃守信顕公正眼寺に参拝来る
1826 文政 9 領主六字名号の碑建立(正眼寺大門)
1832 天保 3 天保の大飢饉はじまる(9年まで)
1861 文久元 六、七月夏日照り続き村では正眼寺禅徳寺に頼んで雨乞いの祈祷行う
○和宮太田宿本陣に宿泊(十月二六日)
二二日・二三日準備のため太田宿へ人足動員される
出役 二四日人足八八人馬八頭 二五日人足二五人
1867 慶応 3 王政復古
1871 明治 4 廃藩置県 岐阜県となる
1872 〃 5 各村の庄屋をやめて戸長をおく
1873 〃 6 伊深小学校の前身秀文義校、正眼寺境内見桃庵に創建された
1879 〃 12 郡村制をおく 太田に郡役所をおく
1884 〃 17 美濃加茂事件
 地租の軽減、諸税の撤廃、徴兵令廃止の訴願を川浦・伊深・加治田村の戸長役場に強要して農民多数が蜂起 山之上富士山に立てこもり暴動をおこした
1889 〃 22 天王用水トンネルを柴田長七堀削、貫通により約65町歩の水田に灌漑
1891 〃 24 濃尾大震災
 10月28日 総戸数206、全壊19、半壊24
1903 〃 36 伊深小学校新校舎できる
1904 〃 37 日露戦争おこる(38年終わる)
1920 大正 9 川浦川の発電所より電気が引かれ電灯がともる
1923 〃 12 関東大震災
1928 昭和 3 伊深~加茂野間に定期自動車走る
1930 〃 5 台風8号による連日の豪雨のため廿屋川・川浦川・津保川の洪水 三和・伊深村被害極めて甚大
1932 〃 7 伊深村稲熱病猛威を振るい被害甚大
一昨年の水害と合わせ国と県に救助請願
1937 〃 12 日華事変おこる
1941 〃 16 太平洋戦争おこる
1945 〃 20 ポツダム宣言を受諾
1952 〃 27 伊深土地改良区設立(28年2月工事着工)
 施行面積 田54町1反 畑14町5反
1954 〃 29 市制施行 美濃加茂市発足 伊深町となる

(この年表は故佐野一彦氏が調べられ、伊深連絡所に掲示されていたものを写し取ったものです)